お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

群馬県 

国定忠治

観光地度★★★★

お土産KH度★★★

  国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。本名は長岡忠次郎博徒となって上州から信州一帯で活動。赤城山南麓を「盗区」として実質支配。対立する博徒の島村伊三郎や玉村の主馬、関東取締出役道案内(目明し)の三室勘助などを殺害。信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破った。三室勘助殺害により、忠治一家は関東取締出役から一斉手配を受け、一家の幹部の多くは逮捕され、忠治は会津方面へ逃亡、4年後上州に舞い戻ったが中風を煩い、嘉永3年(1850年)8月24日、関東取締役出役によって捕縛される。捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され、取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である関所破り(碓氷関所(群馬県安中市)を破る)により、時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、当地で磔の刑に処せられる。享年41だった。戒名:長岡院法誉花楽居士(養寿寺)。遊道花楽居士(善應寺)

 

  

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