天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色され講談、映画、新国劇などの演劇の題材とされる。 群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。ギャンブル産業の盛んな群馬県において、「ご利益がある」と墓石を削り取って持ち帰る人が多かった。現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手になるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。
逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと堂山は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が堂山と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」とセリフを残し去った。呆気にとられた堂山だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。この逸話は山雨楼主人こと村本喜代作の「遠州侠客伝」に拠る。
喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。 なお、忠治と島村の伊三郎、三室勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により、2007年6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。
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