お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

岩手県 

中尊寺  

観光地度★★★★★

お土産KH度★★★★

  奥州藤原氏の実質的な初代である藤原清衡が平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建か)に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時であった。金色堂の建立は天治元年(1124年)、諸堂の整備が終わって、盛大な落慶供養が行われたのは着手から実に21年後の大治元年(1126年)で、清衡は71歳(死の2年前)であった。この落慶供養の際の願文(がんもん)の写本が残っているが、それによれば、中尊寺は前九年・後三年の役の戦没者を含め、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立されたものであった。平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡秀衡泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂と毛越寺の庭園のみである。文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。近世を通じ、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、寛文5年(1665年)には東叡山寛永寺の末寺に組み込まれている。1909年明治42年)に本堂が再建。1950年に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体が調査される(中央壇に清衡、右壇(向かって左)に基衡、左壇(向かって右)に秀衡の遺体と泰衡の首級が納置されていた)。1958年には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年に創建当時の輝きを戻すことになる。

 

  

 中尊寺

 

  

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