お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

岩手県 

平泉  

観光地度★★★★★

お土産KH度★★★★

   平安時代末期に、奥州藤原氏の根拠地となった町として有名である。奥州藤原氏の時代には、平泉の人口は10万〜15万人と推定され、当時の日本(推定総人口1000万人)において、平安京(16万〜30万人)に次ぐ大都市として栄えた。藤原氏の治世のもと、平泉には有名な中尊寺毛越寺などが建立され、さらに第3代当主・藤原秀衡は名馬や黄金を朝廷にたびたび献上して、その経緯から京都の文化を取り入れるまでに至った。また、アイヌをとおして大陸(沿海州)などとも交易をしていたことも知られている。しかし秀衡死後の1189年源義経を匿ったことから源頼朝の追討を受け、泰衡は混乱の中で家臣に殺され、ここに奥州藤原氏は滅亡した。その後、平泉は奥州総奉行として赴任した葛西氏の本拠となったが、鎌倉時代の平泉は産金量の低下や御家人の領地細分化などで次第に栄華を極めた都市としての力を失い、中世末期には奥州藤原氏によって建設された造営物は大半が失われてしまい、都市としての力もなくなってしまった。江戸時代前期の1680年6月9日元禄2年旧5月13日)、平泉を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原氏の当時繁栄を極めた居館のあった場所が、田野となっている有様を見て、下記の名句を残している。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

 

  

 平泉

 

  

  平泉

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