麓に天主(てんしゅ)と呼ばれる御殿があり、そこへ通じる道の両側に当時は石を積んだ塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところにその御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた4層[1]の華麗なものであったという。宮上茂隆の説[2]によると、京都天竜寺の僧侶である策彦周良による命名とされる。現在、御殿跡は岐阜公園の一部として整備されている。
山頂にも「てんしゅ」があり、こちらは「天守」と書いた。「天守」は池田輝政時代に改変され、岐阜城廃城及び、加納城築城によって他の建物と共に加納城へ移築されていたが、1728年(享保13年)の落雷によって焼失している[3]。
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