京都に対して東の要所に位置し、難攻不落の名城として知られているが、歴史上7回の落城にあっている。山頂部の平坦面は少なく、井戸も雨水を蓄えるもので、戦国時代末期の大人数による長期籠城戦には本質的に不向きであった。織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。つまり合戦のための城でなく、基本的に城主の居住空間である。
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