もともと上山には天童氏(最上氏庶流)の一門上山氏が城を持っていた。1508年に伊達氏がこの城を攻め落とし、城主上山義房は滅亡。伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。その後、上山義房の子武衛義忠が城を奪還。義忠によって改めて築城された平山城が現在の上山城である。以後城主は武衛義節、そしてその子上山満兼と続く。この頃見天童氏は主家最上義光と次第に対立。満兼も天童一門として義光に従う事を拒否し、伊達氏とともに山形を攻めるなどした。しかし1580年義光は里見民部を寝返らせて上山城を攻め落とし、城主満兼は討死。代わって里見民部が上山城主になった。江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。本丸を囲んで一段低く周囲に二の丸があり、外濠が取り巻いていた。藤井氏時代は天守はなく、二の丸に居館が設けられていた。
金森家が転封された際に一度破却されたが、破却前は本丸に三重の天守や各所に櫓門がある近世城郭であり、月岡・天神森にそびえるその壮麗な城郭は「羽州の名城」として広く知れ渡っていた。
藤井松平家が封じられた際に上山城は再興されたが、二の丸に居館を設けた程度の城構えであり明治を迎えた。
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