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青森県 

八甲田雪中行軍遭難事件  

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八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本冬山登山史上もっとも多くの遭難者が発生する事件となった。生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外の、その殆どが凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。軽症な方では、及川平助はアキレス腱と指3本、山本徳次郎は左足を切断した。その他は四肢切断であった。また、一番元気だった倉石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1月27日に戦死した。

事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としてすすめていたことが挙げられる。日本陸軍は1894年日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件から2年後の1904年日露戦争として現実のものとなった。この演習の目的は、ロシア海軍艦隊津軽海峡(北海道と青森との間)に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、日本海側と太平洋側から、それぞれ移動するための演習であった。そのルートは「弘前〜十和田湖畔〜三本木〜田代〜青森」と「青森〜田代〜三本木〜八戸」の2ルートが考えられ、弘前ルートは弘前第31連隊が、八戸ルートは青森5連隊がそれぞれ受持つ形となった。このような形になったのは全くの偶然であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等・・」の全般に渡る研究が目的だったのに対し、青森第5連隊は「雪中における軍の展開、物資の輸送の可否・・」が目的だったとされている。

 

  

 八甲田山

 

  

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