中世には岩木川河口の十三湊があった「西北五地区」が貿易(国際・国内)で活況を呈したが、南部氏の侵入により衰退、江戸時代には弘前城が置かれ城下町が開かれた弘前のある「中弘南黒地区」が中心になった。日本海側の鰺ヶ沢・深浦は北前船の寄港地となって栄えた。特に、鰺ヶ沢は津軽産米の積出港として、最も重要視された。明治時代になり、現在の青森市に県庁が置かれ、また、本州の鉄道の北のターミナル、および北海道との窓口となって青函連絡船が就航するようになったため、青森が存在感を増すことになった。その後、弘前市は陸軍第八師団と旧制弘前高校を擁した軍事・学園都市として、1889年(明治22年)の統計では、弘前市は人口30,487人で全国29位だった。戦後、日本軍の解体により第八師団も解散したが、弘前大学が新設されたことから、弘前市は引き続き学園都市としての性格を保ち続けている。白神山地の世界遺産登録を期に、ねぷたなどの文化や雄大な自然を有する津軽地方は、観光地として集客能力を増している。
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「津軽じょんがら節」
ハーアー お国自慢の
じょんがら節よ
若い衆うたえば
主人のはやし
娘おどれば
稲穂もおどる
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