お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

青森県 

青森ねぶた祭  

観光地度★★★★★

お土産KH度★★★

 以前、起源としてよく知られていたのは、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂陸奥国蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において、敵を油断させておびき寄せるために、大蟷螂太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として、1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし、田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

この他にも「ねぶた」という言葉の語源から推察した仮説も存在する。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、百済人征東大将軍紀ノ古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。 阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。 つまり『根』(死)の国へ追いやる為の土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。

藩政時代や明治時代、特に明治時代には大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、しばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には戦意高揚のために解禁されている。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。内蔵する光源は、当初はろうそくであったが、蓄電池を電源とする電球照明、発電機を電源とする電球照明および蛍光灯と変化した。これは、骨組みがから針金に変わったことと併せて、火災の危険性の少ないものとなることに貢献した。ねぶたは大型化していったが、歩道橋電線交通信号などの障害物のため、横幅の広いものへとなっていった。

 

  

 東北四大祭り

 

  

 青森ねぶた祭

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