箱根峠の山道は、古くから東海道の要衝であった。律令時代に設けられた当初の東海道は箱根峠ではなく、箱根山北方の足柄峠を経由した。しかし、富士山の延暦噴火(800年 - 802年)のために通行が困難になったため、新たに箱根峠の街道が開かれた。その後、足柄峠のルートも再開したため、二つの街道が並存した。 江戸時代になると、江戸幕府の五街道整備において、距離の短い箱根峠ルートが重視された。芦ノ湖畔には箱根の関が設けられ、幕府防衛のための関と位置付けられた。「入鉄砲に出女」つまり、江戸に侵入する鉄砲と江戸から逃げる女(江戸屋敷に住むことを義務付けられた大名の妻)を厳重に監視した。関所の守備は小田原藩が担当した。幕末には、佐幕派の遊撃隊と新政府に恭順していた小田原藩兵との間に関所をめぐり激しい戦闘が行われ、関所の大部分が戦火で消失した。 1869年(明治2年)に関所は廃止され、自由に行き来することが可能になった。その後、関所跡は名所として親しまれ、戦後には観光施設として整備されたが、2006年(平成18年)にはそれまでの文献や発掘作業などを基に、ほぼ完全な形の復元関所が完成している。道路の東海道である国道1号は箱根峠を経由する路線になっており、小田原から箱根峠までは箱根新道が建設されている。また箱根峠を迂回するルートとして、御殿場市を経由する国道246号の整備が進んでいる。
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