お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

 

 

 

東京都

皇居  

観光地度★★★★★

お土産KH度★★★★

  明治宮殿は、御車寄・広間から正殿、鳳凰の間、東西の溜り、豊明殿や千種の間など、応接・政務の場と天皇の住居にあたる奥宮殿が接続していた。この明治宮殿は太平洋戦争中の1945年昭和20年)5月、空襲により焼失した。明治宮殿の焼失後、昭和天皇香淳皇后は、吹上御苑内の御文庫を仮の住まいとし、宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。戦後、1948年昭和23年)に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった。戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、自らの著書で『お上(昭和天皇)は戦争終了後、「国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ」と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた』旨のことを記している。昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の住居(御所)とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。まず1961年(昭和36年)、昭和天皇及び香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接して建設された吹上御所が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地に1964年(昭和39年)着工し、1968年(昭和43年)10月竣工、1969年4月から使用された。なお吹上御所は、昭和天皇の崩御後に、皇太后(香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所と改称された。今上天皇皇后は、践祚後も暫くは引き続き赤坂御所(現東宮御所)に居住しながら皇居宮殿に通っていたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所が建設され、1993年(平成5年)12月から使用している。

 

  

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