「吾妻鏡」の1181年(養和元年)の条に浅草の名が見える。古くから浅草寺の門前町として栄えていた。また江戸湊や品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。江戸時代には仲見世が発展し、後の一大繁華街となるきっかけになった。1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、新吉原遊郭が移転してきた事。1841年(天保12年)の天保の改革では遠山金四郎により、芝居小屋が浅草に移転してきた事による。明治時代には東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地域を明治時代に公園化し東京初の都市公園である浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、浅草公園六区ともよばれた。なおこの言い方はその中で一番にぎやかだった地域である第六区のみを指す場合が多い。
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