お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

千葉県 

大多喜城

観光地度★★★★

お土産KH度★★

   大多喜城(おおたきじょう)は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、大多喜藩の規模縮小に伴い、山頂の天守なども荒廃。天保13年には天守が焼失し、天守の代わりに二層の「神殿」と称する建築が天保15年8月に建てられている。

 

  

 大多喜城

千葉県インデックス

 ←前へ  次へ→

 

ホーム    → 出発の前に    → 想い出コラム    → リンク集    → 掲示板    → メール