この灯台は明治初期に、江戸条約によって建設された8基、および大坂条約によって建設された5基の洋式灯台の中には入っていないが、それに続く重要な灯台として建設が決まった。というのも、この付近一帯は小島・岩礁が多く、昔から海の難所とされてきたからである。そして1868年10月6日(慶応4年8月21日)、幕府の軍艦・美加保丸が暴風雨に遭い、ここの黒生(くろはえ)岩礁に乗り上げて座礁沈没、乗組員13名が死亡するという事故も起きていた。そのような中でイギリスから招いた灯台技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計、施工監督のもと1872年10月4日(明治5年9月2日)に着工、1874年(明治7年)11月15日に完成し初点灯された。建設当初より白色塔形(円形)の煉瓦造灯台だが、この煉瓦はブラントン技師に最初は反対されながらも中沢孝政という内務省の土木技師によって生産が試みられた初の日本製煉瓦(千葉県香取郡高岡村(現・千葉県成田市高岡))で、19万3000枚もが積み上げられている。ブラントンはこの日本製レンガの強度に不安を感じたのかそれまでの灯台の構造とは違って二重構造のしっかりした造りとしたこともあり、120年以上の風雪に耐え今日に至っている。煉瓦製の建造物としては尻屋埼灯台に次ぐ、日本第2位の灯塔高31.3m(地上から塔頂まで)を誇っている。2008年(平成20年)3月31日、犬吠埼灯台に付随する施設であった犬吠埼霧信号所「霧笛舎」が100年の歴史にピリオドを打ち、閉鎖された。閉鎖に当たって最後の霧笛を鳴らすお別れ式典が挙行された[1]。
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