お土産キーホルダーでめぐる日本全国ぶらり旅

千葉県 

銚子  

観光地度★★★★

お土産KH度★★

  現在、銚子漁港は日本随一の漁獲量を誇る漁港となっているが、嘗ては日本の三大海難所の一つに数えられた所であった。利根川の河口付近に千人塚(銚子市川口町2丁目)というところがあり、1616年(慶長19年)10月25日銚子沖に吹いた突風によって亡くなった千人以上の漁民を葬った場所と言われている。昔の利根川河口付近は川幅が狭く、川底には大きな岩があり、その上水深が浅く、干潮時と満潮時の潮の流れは急で、一年中風が強く吹き波が荒い場所であった。明治43年3月12日には、漁船80隻、漁民千人以上が遭難した。 当時の船頭歌で「阿波鳴門か銚子の川口、伊良子渡合が恐ろしや」などと諷されていた。 何度も遭難が繰り返される中、銚子の町人や漁民らの間から河口を広げ水深を深くし、安心安全な漁港を造って欲しいという要望が上がり、銚子醤油株式会社(現・ヒゲタ醤油)社長の濱口吉兵衛を千葉県水産株式会社取締役社長に抜擢し、安全な港に修築できるように、県や国に訴えて貰う事にする。以後、県や国が調査し、川底の爆破をし水深を深くする事を試みるものの、返って流れが急になり、やむなく中止する。別の案では、救助砲(救助ロープを打ち出す砲台)を設置するものの、いざ使用してみると、船まで届かず全く意味を成さなかった。 以後、吉兵衛は悩み、漁民を危険な状況から救う為、また、国へこの実情を訴える為に国会議員になる決意をする。その後、国会議員となった吉兵衛は、千葉県議会議員であった小野田周斎と共に銚子漁港改修に全力を注ぎ、銚子港修築案がついに国会を通過、国からの援助を得る事が決まった。1925年(大正14年)12月修築工事が始められ、1932年(昭和7年)11月竣工した。 1937年(昭和12年)吉兵衛の功績を讃え、新生河岸公園に銅像が建立されたが、1943年(昭和18年)、戦時供出された。しかし、1955年(昭和30年)銅像は再建された。

 

  

銚子の旅

 

  

 超Cちゃん

 

 

銚子

千葉県インデックス

 ←前へ  次へ→

 

ホーム    → 出発の前に    → 想い出コラム    → リンク集    → 掲示板    → メール