成田山新勝寺は平安時代中期の起きた平将門の乱の際に朱雀天皇が平将門の乱平定のため、天慶2年(939年)、寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌天慶3年(940年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門の乱平定祈願のため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(9年―1566年?)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王を背負って現在の場所に遷座し伽藍を建立、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。江戸時代には、江戸(征夷大将軍の城下)でたびたび成田不動の「出開帳」(現代の語感でいえば、「秘宝特別公開」)が行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺になったが、塔頭寺院が1896年名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。なお、2007年11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m,桁行14m,梁行8m)が完成。
|